「社長さんは今いらっしゃいません」

ずーっと前、私が韓国語を独習し始めて間もない頃に某雑誌で読んだ随筆に、とある女性の体験が語られているのがあった。その女性が銀行の窓口で並んで延々と待たされている時に、傍で子供が騒いで、それをロクに叱れない母親がどうしたこうした、とかいう、日本でもよく見掛ける光景の話だったか。まぁ内容はどうでもよい。

面白かったのは、その随筆の終わり近くになって、「その女性、即ち私の母は、…」と、実はその女性というのが筆者の母親であることを明かすくだりだった。これ自体は随筆としてはありふれた技法だが、そこで文体にある変化が起きる。「その女性」に対しては「〜した」だったのが「私の母」になった途端に「〜なさった」と敬語に切り替わるのである。

で、ようやく標題の話に入る。日本語で電話などで話す時、いい大人が標題のような受け答えをしたら確実に笑われるだろう。ところが韓国語では標題のような言い方が正しいとされる。

つまり、日本語が尊敬と謙譲との境目を「ウチかソトか」によって線引きするのに対し、韓国語ではウチだろうがソトだろうが目上の者には全部尊敬で通す。しばしば「絶対敬語」などと言われるやつだ。


しばしば茶飲み話的なノリで語られる日本文化論を聴いたり読んだりしていると、周知のようにもう二言目には「ムラ社会」なるものが論われるわけで、その「ムラ性」の根底に上述の「ウチとソトの区別」があることは謂うまでも無いだろうけれども、では韓国みたいなやり方の国にそうした「ムラ性」が無いのかといったら勿論全然そんなことは無いわけだ。…どころか、「ウチとソトの区別」は韓国に於いてはややもすると日本よりも遥かに濃厚に見られる。

儒教的な道徳観というのは、要は身分なり長幼の順なりといった「タテの序列」で全てを割って行くわけだけれども、そういう考え方と「ウチとソト」で割って行く「ムラ的なるもの」というのはおそらくもともと反りが合わないのだろう。韓国みたいに儒教道徳がはびこると「ムラ的なるもの」は脇に追いやられる。追いやられるけれども消え去ったりはしない。「ムラ的なるもの」無しの縦割り一辺倒では社会がギスギスしすぎる。韓国人は「ムラ的なるもの」を捨てなかった。脇に追いやられつつ捨てられずに残った「ムラ的なるもの」は当然新しい行き場を探してそこに凝集することになる。その凝集したのが「ウリ」なのだと考えると分かり易い。

「ウリ」はその場その場で大きさを変える。一番小さい時は自分と誰か話し相手との2人。一番大きい時は普通は朝鮮人全体(北まで含む)。「全人類」まで行くことは普通は無い。「ウリ」は「ウリのソト」*1との対比に於いてしか意味を持たない。

*1:強いて言うと何だろう。やはり「」かな。